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2001年7月 7日 (土)

日本的なものを守るということ


そりゃあ日本的なもののすべてが楽しいものばかりじゃないさ。
困ったなあと思うときもよくある。
あまりにも無意味に遠慮しすぎるんだよ、と思うこともある。
当然何もかもいい、だなんて思っちゃいないさ。
でも何もかも滅ぼしてもいいだなんてことはやっぱりない。

グローバニズムは何時の間にか体の中に入り込んで自分ではそうと気が付かないうちに自分の中の
ふるさとを消し去ってしまう。消し去ってしまっても別に大丈夫、問題ない、元気元気、とはじめ
のうちは思っているけれど実は非常に大きな痛手とからっぽのうろを心の中に作り出してしまう。

最初からふるさとなんてない子どもを産んで、そういうふうに育てていく。どこかに新しいふるさ
とを見出すけれどそれはやはりいびつなものとなってしまう。底が浅いものとなってしまう。ごく
限られたある種の人たちだけが父祖以来の伝統文化を護るチャンスに恵まれている、そうでない人
びとはいろいろな種類の美名のもとにそれを奪われる。

社会システムや資本主義というものを否定し去ることはもちろんできない。
できる限り、という範囲でしか護ることはできない。
でもやらないわけにはいかない。

イタリアから起きたスローフード運動は単に食生活でのアンチグローバリズムにはとどまらない。
逆にいうと食の均一化ファストフード化は人間の家畜化に大きな意味を持っている、日常茶飯の
ことだからといってその辺を軽軽しく考えてはいけない。
人間は食わなくては死ぬのである。
だが、食っているだけでは心は死んでしまうのだ。

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