人間には、基盤となる文化が必要だ。逆にいえば
それ以外はいらない。
今日は朝からいろいろあった。膝の医者に手術後の診察をしてもらった。
彼の意見、確固としてわかっていること、わかっていないこと、人それぞれで違うこと、
それをうまいこと言い訳解き分けてくれた。
信頼できる医師と話をするのは楽しい。
その後、あるノンフィクションライターの方と会う。彼女は彼女の基盤となる文化について、それを教えてくれた伝統芸能について、
それをどうやって見つけ、それがどんなものであり、どんなふうに素晴らしく、どんなふうにろくでもなく(これは誉め言葉なので間違えの無きよう)
そしてどんなふうに彼女の活動がそれにより支えられているか、を心から楽しげに激しくそしてしなやかにも
語ってくれた。ぼくは聞いていて感動し、同感し、ぼく自身のむかしの思い出を反芻し、夢を見、わずかな
時間で時空を旅することができた。彼女とは、そして彼女の周囲にいらっしゃる方々みなさんとは、
もしかしたらもっとたくさんのお話をこれからもしていけるかもしれないと思った。その伝統芸能は、ぼくも愛する歌舞伎である。
そしてその後、欧州の伝統芸能でありしかも現代もバリバリに前線にある芸能でトップクラスにいる人に
打ち合わせでお会いした。彼の中にあるもの、苦しみ、誇り。それは、伝統芸能の中にいて仕事をしている人、その人々に
話を伺って仕事をしている人々の中にもあり、理解できるものであり、互いに触発されるものでもあり。
本当に面白かった。
夜、東京ドームでジャイアンツの野球を見た。清原和博は團十郎だった、
まあそういうような存在だった。チャンスには見事に三振をしてドーム球場を祓ってくれた。
そして勝ちが固まってしまうと、一人花道に現れて、見事な六法を踏んでくれた、
見事なホームラン。
誰もが清原を愛していた。その、「とんぼ」のテーマの妙なこと。
ジャイアンツは妙なチームだ。それは荒事で、伝法で、いいかげんで、めちゃくちゃなチームだ。
テレビには、そぐわないのだ。テレビでは、とらえきれないその輝き。スポーツだけでは説明できない、その力。
日本はどうだろうか。
日本とはなんだろうか。
ぼくたちは歌舞伎の中にあるものをあまりにも忘れ去ってはいないだろうか。
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