日本がいつまでたっても
ダメなのは日本という枠組みとは何なのか、がわかっていないからではないのか。
ニューヨークで、競馬の取材をし馬券は損をして友人と話をした。
構造改革というときの構造も、この枠組みの一つだ。
そしていわゆる平和憲法も、この枠組みの一つだ。
それを壊すにしても、守るにしても、越し方行く末を知る努力無しにはできるはずがない。
インスタントにやってしまっている自分を発見したとき、何故自分いまこんなことを考えているのか、しているのか、本当に考えているのか、しているのか、実は誰かの考えそのままなんじゃないのか、誰かに何かやらされているのじゃないのか。
いつも同じことを言ってもはやボケ状態だが、
本当に立ち止まって考えてみた方がいい。
それから日本とは違う価値観で動いている世界を想像してみたらいい。
材料はたくさんあるのだから、いろいろと吟味して、違う世界を学んでみたらいい。
その世界はもしかしたらとても鬱な世界かもしれない。明るい世界かもしれない。絶望が支配する世界かもしれない。天国かもしれない。
そしてその世界とぼくたちの作っているこの世界とが、どういうふうにつきあうのか、混ざり合うのか、反発するのか。
競馬の話をするうちに、友人との話はシンガポールに及ぶ。シンガポールと日本との関係に大きな画期が訪れているときに、何人の日本人がそれに気がついているのだろう。
シンガポールとは何か? 多くの民族が宗教が共存する都市国家、通商国家。
ここにはリー・クワン・ユーがいる。そしてマレーシアにはマハティールがいる。
彼らのことを想像して見よう。彼らが言っていることしてきたことをよく調べて見よう。
アジア人だ、日本人だ、と言うのなら、じっくりと考えて見よう。
NYPDのキャップをかぶった各国から集う騎手たち。
各国から集う馬たち。
たまたま、なのか必然なのか、今回日本の騎手も馬もいなかった。
そして日本では、海外に行く気まんまんの調教師二人の馬が、土日でそれぞれ目の醒めるような競馬をみせたという。
あらゆるジャンルに、同じ問題がある。同じ希望もある、と信じたい。
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