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2001年11月23日 (金)

何が起きてもやっていける足腰の強さがほしい


忙しすぎて日記書けず、なんちゃって23日の日記。当然24日午前中に書いてます(^^;)。

株主代表訴訟での取締役の賠償責任に上限を設ける商法改正に向け連立与党が合意したというニュースがある。
この改正法案が通ったときが、具体的な不良債権処理、つまりは崩壊のはじまりだ。
もっともっと十年近く前にやってれば、崩壊ではなく再生のはじまりになりえたのに、とりあえず一回崩壊することになる、日本経済。
結局、責任者が免責される、あるいは責任の幅を大目に見てもらえる体制が整わない限り、変化は起きない。そういう体質がある。
それを見越して、敵だって動いている。
われわれも動かなくてはいけなかったのに。
十分でなかったことが悔やまれる。

何が起きても、崩壊しても、なんとかやっていける足腰の強さが、明治維新後、関東大震災後、大東亜戦争敗北後の日本人にはあった。
ただし、そのときどきに、爆弾を埋められて後に爆発するまで気が付かなかったりはしているが。

ある人に会った。いろいろとあって若くして人生の修羅場も見てきた人だ。だが今では迷い無く己の道を行っている。
その道はまたいばらや悩みに満ち溢れても居るのだろうけれど、その人は明るかった。稚気も残る笑顔には、稚気ゆえにの強さを保とうという強靭な意志が隠されていた。
彼のいる世界は特殊な世界だ。社会経済が崩落したときに、その世界を保っていけるかどうか、そんなことが問われる日がもしかしたら近く到来してしまうかもしれない。
そういうときに、彼の如き足腰の強さを持っているであろう人間の存在は大きいはずだ。
過去においても、そうだった。
ことはもはや起きる。
それに対していまどう動くか。
そのときどう動くか。
その後どう動くか。

軌道に飛び降りたり樹海に迷ったり、あるいは外貨預金をしたり稀少金貨を買っていたりしても、何もはじまらないし変わらない。

そう言いながら自分にそんな足腰の強さがあるわけもないことには気が付いている。
それでも負けるのはイヤダ、って甘えん坊のダダのようなことをつぶやきながら。

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