しみじみ思う憲法のこと
しかし色々考えるに、日本国憲法ほどの時限爆弾はなかったなと。
ドタバタで作ったように見えて実に考えてあるってことだったのか、と。
マッカーサーは自信満々だったらしいが、さもあろう、である。
マーク・ゲインは「ニッポン日記」のなかで、憲法押し付け時の白洲次郎氏の狼狽を以下のように書いている。
「松本草案はすでにしまわれて、机の上にはホイットニーの持ってきた草案がのっていることがすぐに目についた。日本人たちは雷にうたれたような顔つきをしていた。通訳の役をつとめた白洲は、実際に口をあけても何の音も出て来なかったことが何回もあった。」
そりゃああっただろう。白洲氏ほどの人ならば、これがどれだけの爆弾であるかは一読してわかったのだろう。
マーク・ゲイン自身は、マッカーサーの置き土産はそんなに寿命ながらえないのではないか、と書いている。戦争放棄軍隊禁止なんてできるわけがない、ということだ。実際自衛隊は生まれた。だが、マッカーサーの爆弾は、それでかえって意味深くなった。日本は不思議な国になった。誰も本当のことを言えない国に。
いろいろ考えると結局我々の国の支柱部分に悪魔がいるのだ。
どうにもならない敵は体のなかにいる。
守ってくれるもの、守らなくてはいけないもののなかに、自分じゃないものが住んでいる。
その辛さ。
自主憲法を、という運動の中にも悪魔がいる。
雁字搦め。
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