成人ってゆーかいま二十歳くらいの人へ一言
成人式もなにも何をもって成人というのかわからない社会を築き上げておいてそんなものやろうとしたってそりゃあ無理。人と成る教育を少なくとも公的機関は行っていないし、家庭でも行っていないし、町内会でも行っていない。アウトローやある種の会社やある種の業界などでは行われているところもあるが。だから市町村がやる成人式で暴れるのはある意味当たり前。
サントリーが昔から成人の日に広告を出していて、今は伊集院静さんの原稿が載っている。今年のもので伊集院さんは「大人になんかなるな」と書いている。「新しい大人になって欲しい」、と書いている。
「私は人の盛りは五年だと思っている。大負けに負けて十年だと思っている。スポーツの選手を見れば分る。十九やハタチまでに過去千年二千年のかけっこの記録を全身におぼえこませ、その上での選手である。スタートに並ぶ面々は皆々同じである。その上でしのぎを削るのである。三十歳を超えれば老雄である。(中略)
これを要するに人の才能は一つしかない。行きづまっても他に転じることはできない。花いっとき人ひと盛りである。若年のころ百メートルを十秒強で走ったから今も走れるとスポーツの世界では思うものはないのに、他の世界ではあるのだる。以前奇想わくがごとくだったから今もと思う経営者がある。
私は一雑誌を主宰して四十年になるが、プランがわいて出て応接にいとまがなかったのは五年もなかった。それなのに雑誌が四十年も続いたのは全盛時代がなかったせいである。満つれば欠くるといって、全盛時代があれああとは衰えるばかりである。
命ながければ恥多しという。」
山本夏彦さんのコラムより。新潮社「その時がきた」所収。
要するにハタチだと大人だ成人だ、などということに何の意味もない。
そんなことを区切りに考えて騒いだり勘ちがいしたりするのは、ちょっと淋しい。
人は同じようには歳をとらない。
そして歳をとったからって人は成長なんかしない。
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