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2002年2月 6日 (水)

サル、明治維新、アフガニスタン


誰も着たい服を着ているわけではない。
どんな社会でもわれわれは実はお仕着せを身につけている、のかもしれない。

人間だけがなぜか服を着る。

明治維新、戦争直後の某国。伝統を否定する言葉の爆弾。
いつでも戦勝者の側の報道は一方的になる。負かした敵のやることは1から100まですべて邪悪、だったりする。

服の着方も。

本来人は着たいものを身に付けて、食べたいものを食べていた、と仮定する。
遺伝子などに組み込まれた情報に従って。

その情報が狂わされた、のかもしれない。
そして狂いには楽しみが含まれている。
娯楽とは狂うことだ。
学問も狂うことだ。

狂いと美、狂いと明晰。

私たちは狂っているのか?

脳の奥にこびりついているコンセプト。
日本人という概念。
追いかけるにはすでに時遅い。
もって帰って検証するのは時間がなさ過ぎる。

そして着ている、不恰好なスーツ。
わたしたちにはそれを着ない、という選択もあった。
でも遠く過去に父祖はその道を断念した。
それは苦難の判断だった。それを人は恥というかもしれない。
それを人は恨みというかもしれない。
先人はとにかく、その感情を記憶した。遺伝子の奥底に。決して消えない何者かとして。

私たちにできることはでは、といってわれわれの民族衣装であるものを再び身にまとうことか?

和服を着る。
手ぬぐいを使う。
ぞうりを履く。
ふんどしを締める。
和装文化といってもその多くが実はつい最近(この数百年)作られたわかりやすい風俗に過ぎないという事実がある。

できるなら息をしたい、
江戸っ子のように。
日本人のように。

それも、気がつけばしていたかのように、気楽に。

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