言葉とはなんだろう
あるジャンルに対する愛情無くして、心の奥底からの理解と共感無くして傲慢になにかものをいうとき跳ね返ってくる刃はいったものに突き刺さる。ある事情がありある目的のために述べられた言葉は、事情をこえて一人歩きすることがある。その事情にとって一見有利に見えることでも、次第に別の効果を生み出していき、恐ろしいことにつながることがある。事情を超えて世を過たせることになる。真実なんてこの間違い多い人の世で実現したり力を持ったりすることはないかのように見えるけれど、実は真実というものの獣のような強さは侮りがたいものがある。自らの姿をじっくり見直してみることが大事かもしれない。自分が口にしていること描いていること言葉にして撒き散らしていることについて、ほんとうに心からのものであるのかどうか? 意味として人に波動とともに伝わるものであるのかどうか? 深い胸の底の方にまで問うてみた自分のなかの真実の言葉であるのかどうか? 劣情へ訴えかけるだけの扇動の言葉など作り出すのは簡単だ。プロであるならばそんな言葉を作って喜んでいるようじゃ話にならない。言葉のプロであること、文書のプロである事とはいったいなんだろう。もちろん言葉は撒き散らされるものだ。そして制御不能なものだ。だから詩があり歌があり物語がある。撒き散らされたメディアの言葉、敵と味方が入り乱れたこの世の言葉。認められた言葉打ち捨てられた言葉、評価された言葉、無視された言葉。悔しがる言葉。ぼくは大事にしようと思う。真実をではなくて、言葉を。言葉を使う、なんて傲慢はぼくにはできない。言葉を裏切る、なんて乱暴はぼくにはできない。言葉にぼくは従う。言葉と芸術は違う。文章を書いていると人は勘違いする。文章のアーティストは言葉の支配者ではない。芸術はぼくに従う。でもぼくは、言葉に従う。そこにはじめて、なにがしか力のあるものが生まれる。
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