世界のどこでもいいから
しっかり足を地に付けて暮らすこと。
それができなければ民族じゃない.
自分たちの言葉で森や湖や川と会話できること。
そうでなくてはふるさとなんかあるとはいえない。
どんな国でも、どんなまちでも、どんな田舎でも。
きちんとした人たちは、きちんと近づく。そこに暮らす人たちと、しっかりと会話する。喧嘩する。夢を見る。シェアしたり、奪ったり、絶望したりする。
世界のどこでもいいから、自分が親から受け継いできた誇りを大事に、しかしひけらかさずに持ちつづけ、愛して、愛されたら。
それが生き残れる、民族だ。
衆を頼まず、笑顔で乗り越え、間違ったことには異を唱え、夢や愛は裏切らない。
世界のどこでもいいから、そんな人々が生き残る隙間があるのなら。
もちろん、ぼくはそんな村には暮らせない。そんなにきちんとした人間じゃない。息が苦しくなってしまう。ただ暮らせない無明の餓鬼をも遠目にして、まだ許してくれる、そんな神であるのなら。
いや、どんな神でも願い下げだな、やっぱり。
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