日本の敗戦
山田風太郎氏の「戦中派不戦日記」講談社文庫版P406-
「八月十五日(水) 炎天
○帝国ツイニ敵ニ屈ス。
八月十六日(木) 晴・夜大雨一過
○朝九時全員小島寮に参集。これより吾々のとるべき態度について議論す。
滅ぶを知りつつなお戦いし彰義隊こいそ日本人の真髄なり。断じて戦わんと叫ぶ者あり。
聖断下る。天皇陛下の命に叛く能わず。忍苦また忍苦。学問して学問して、もういちどやって、今度こそ勝たん。むしろこれより永遠の戦いに入るなりと叫ぶ者あり。
軽挙妄動せざらんことを約す。
中略
○八月十五日のこと。
中略
「どうなの?宣戦布告でしょう?どうなの?」
と、おばさんがかすれた声でいった。訴えるような瞳であった。
いおれはラジオの調子が極めて悪く、声がときどき遠ざかり、用語がやや難解で、また降伏などという文字は一語も使用していないことーなどによる誤解ばかりではない。
信じられなかったのである。
日本が戦争に負ける、このまま武器を投げるなどと、まさに夢にも思わなかったのである。
「済んだ」
と、僕はいった。
「おばさん、日本は負けたんだ」
後略」
水木しげる氏 本日付日本経済新聞「私の履歴書」
「相変わらずの落ちこぼれ二等兵の日々を過ごすうち、八月十五日を迎え、「ポツダム宣言受諾」が伝えられた。ジャングルにいる我々には意味が分からず、「勝ったのか」というささやきも漏れたが、やげて負けたと分かった。私は負け戦を悟っていた。落胆と虚脱感が渦巻く中、「生き延びた!」と思った。
大勢が死んでいった。祖国のため、愛する者のために勇敢に散った人たちもいるが、無謀な命令にっよる死も少なくなかった。この陣地を死守しろとか、あの丘を攻略しろとか、大局から見るとちっぽけなことにこだわり、死が美化された。面子、生き恥、卑怯という言葉のために多くの兵士たちが逝った」
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