« 2003年7月 | トップページ | 2003年9月 »

2003年8月

2003年8月15日 (金)

日本の敗戦


山田風太郎氏の「戦中派不戦日記」講談社文庫版P406-
「八月十五日(水) 炎天
○帝国ツイニ敵ニ屈ス。
八月十六日(木) 晴・夜大雨一過
○朝九時全員小島寮に参集。これより吾々のとるべき態度について議論す。
滅ぶを知りつつなお戦いし彰義隊こいそ日本人の真髄なり。断じて戦わんと叫ぶ者あり。
聖断下る。天皇陛下の命に叛く能わず。忍苦また忍苦。学問して学問して、もういちどやって、今度こそ勝たん。むしろこれより永遠の戦いに入るなりと叫ぶ者あり。
軽挙妄動せざらんことを約す。
中略
○八月十五日のこと。
中略
「どうなの?宣戦布告でしょう?どうなの?」
と、おばさんがかすれた声でいった。訴えるような瞳であった。
いおれはラジオの調子が極めて悪く、声がときどき遠ざかり、用語がやや難解で、また降伏などという文字は一語も使用していないことーなどによる誤解ばかりではない。
信じられなかったのである。
日本が戦争に負ける、このまま武器を投げるなどと、まさに夢にも思わなかったのである。
「済んだ」
と、僕はいった。
「おばさん、日本は負けたんだ」
後略」

水木しげる氏 本日付日本経済新聞「私の履歴書」
「相変わらずの落ちこぼれ二等兵の日々を過ごすうち、八月十五日を迎え、「ポツダム宣言受諾」が伝えられた。ジャングルにいる我々には意味が分からず、「勝ったのか」というささやきも漏れたが、やげて負けたと分かった。私は負け戦を悟っていた。落胆と虚脱感が渦巻く中、「生き延びた!」と思った。
大勢が死んでいった。祖国のため、愛する者のために勇敢に散った人たちもいるが、無謀な命令にっよる死も少なくなかった。この陣地を死守しろとか、あの丘を攻略しろとか、大局から見るとちっぽけなことにこだわり、死が美化された。面子、生き恥、卑怯という言葉のために多くの兵士たちが逝った」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003年8月14日 (木)

シュワルツェネッガーとウォーレン・バフェット


シュワルツェネッガーの上級財政・経済顧問に株で億万長者になった男として著名なウォーレン・バフェットが就任したそうな。
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2003_08/1t2003081403.html
バフェットといえばビル・ゲイツと並び称される世界でも1,2を争う億万長者。優良株を安値で買うことで大もうけした人物だ。ディズニーが左前のときに買って大いに儲けたりなんかしたというような。カリフォルニアの州知事にもうなったも同然って感じなのかな>シュワルツェネッガー。
ちなみにバフェットはネブラスカ州オマハに住んでいるのだが、映画の「アバウト・シュミット」もオマハが舞台。木村立哉氏のサイトを全然別の件を知りたくて読んでいたら面白い話が出ていた。
http://kmrt.tripod.co.jp/cashflow/
…引用…
映画『アバウト・シュミット』について、たとえば監督にインタヴューする人は、この映画の主人公が「ウォーレン・シュミット」で「ネブラスカ州オマハ」だってわかった時点で、ああ、同じネブラスカ州オマハのウォーレンでも、世界的億万長者バフェットになれなかった、どこにでもいるシュミットなんだな、っていう程度の教養は欲しい。アメリカ映画の脚本が、そういう周到なネーミングがされているものだということは、昔っからの常識ではないか。
昔の映画ジャーナリストならきっと、「オマハにだれかモデルでもいたのだろうか」と監督に聞いたりはしないだろう。
…引用終わり…
いまの映画ジャーナリストに対してきつくも正しいことを言っていますな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003年8月10日 (日)

浅科村の挑戦


長野県の浅科村が減反政策に叛旗。
http://www.asahi.com/national/update/0809/003.html

続きを読む "浅科村の挑戦"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2003年7月 | トップページ | 2003年9月 »