日本語の文化が攻撃された転回点、ああぼくよ心せよ
夕刊フジが自己責任がどうのと書いている。そして政府が言っている。言って無くても言いたげだ。奴ら橋田さんを十把一絡げに扱うつもりだ。気でも狂ったか。少なくとも、郡山某やボランティアねえちゃんあんちゃんとは一緒にするな。戦火のパレスティナに観光で行って呆れられたカップルと一緒にするな。世界の中心で愛を叫ぶなんてダメすぎる本歌どりタイトルが300万部の日本語文化圏、イラクの中心でバカと叫ぶという洒落で救うようなセンスの持ち主にして熱い魂と取材能力の前線の達人、ぼくは会ったことなどないが書いたものを読みテレビで喋っているのを見ればわかる。日本人は日本語を操る最良のメディアを大きなメディアそのものを失ったのだ。そんな存在が攻撃されることを見越して、その意味を一般化するための、先般来の「自己責任論」だったのかとすら勘ぐりたくなる。今回の事件を最悪のかたちで利用しようという動きがあるからだ。下手をするとそういうことが起きたら利用しようという無意識な目論見がいずれにかにあり、その邪悪な強度がめぐりめぐって何かを刺激してその結果この事件が起きたのかもしれない、とすら妄想してしまうほどだ。ベトナムで、カンボジアで、今までのイラクで生きてきた橋田さんがほかでもないここでこのイラクで遭難されたとしたら、そのことの意味は何か?
自己責任がどうのこうのという意見がことさらにでたとき、メディアというものコミュニケーションというものジャーナリズムというものが、安易に一般化されたうえでひとしなみに否定されること、破壊されることが一番怖かった。たとえば山形浩生さんが朝日新聞に書いていた「自己責任は当たり前論」もそういうことを恐れてのことだったのだとぼくは思っている。間違っちゃいけないが山形さんの言っている「自己責任は当然」という一般化は前提としてのそれだ。その上で個々の議論がはじまるのだ。起きたことに対する一般化ではないのだ。起きたことに対しては、山形さんは検証して論評している。それなのにそんなこともわからずに山形さんを非難するバカもいる。彼等非難する輩はぼくの唾棄すべき一般化を考えもなくやらかしてすましている。その一般化は、人一人一人のやっていることの意味や差異を認めない一般化だ。結論としての一般化なのだ。その一般化はたとえばいう、戦争でジャーナリストが死ぬのは当然だ。そんなことをことさらいうのがそうしたたぐいの一般化だ。ボランティアは聖職だ、みたいなことと同じレベルでそんなことをいうのだ。戦場で人が死ぬのは当然だとしても、それぞれの死はそれぞれ一つ一つがまったく違う、そしてそれぞれの意味がある。
誰が何によってどんな被害をこうむるのか、どんな損失をこうむるのか、誰が得をするのか。一人一人が自ら立つことそして互いにアイ・コンタクトで世を渡ること。コモン・ナレッジというものの思ってもみなかった難しさへの意識認識。それが前提である人たちもいれば、そんなこと考えてみたこともない人たちもいる。ぐるぐるぐるぐるそんなことを考える。そしてそんなこととは関係無しに、人間の感情などおかまえなしに運命(ということばをいささか乱暴に使うが)は繊細な指先でこの世のものからもっとも残酷な効果を選び取り、過たず焦点をあててきっちりと執行する。
心せよ、これが何であるのかを誤らずに認識せよ。
帰宅してニュースを見る。橋田さんの奥さんの姿と声、人は恋をして夫婦となりともに生きる。そのことの意味がそこにある。意味がそこにはない夫婦だってもちろんいる。そういう人々がコミュニケーションしあってコミュニティができあがっている。コミュニケーションできない引きこもりもまたそのコミュニティにはいる。政治がある、引っ張り合う。存在はエネルギーだから、突き飛ばしあう。
これがぼくらの前にある現実だ。この現実について人はいろいろ言ってきた、これからも言うだろう。ぼくは自分自身の身の裄丈しか認識できないタマシイのある部分であらためていろいろな出来事を感じなおしてみる。そして震えるほどに思い知る、これは転回点だ。
ああぼくよ、ずっとずっとダメだしこれからもダメなぼくよ、正義だなんていえない、正義は人を狂わせる、人は教師になりたがる病があることをぼくは知っている。そのことをまた再三再四思い出しながら、おのれのダメを再三再四自覚しながら、このことを今度のことをこの一連のことをしっかりと刻み込め。はっきりと心せよ。そうぼくのタマシイの、わが身の裄丈しか認識できない近視眼的な部分が発熱しながら叫んでいる。これは特別な事態だ。一般化など政府であろうが誰であろうがやろうとしたって決してできない、大きなターニング・ポイントなのだ…。
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コメント
はじめまして。福岡の坂本茜と申します。
宮島茂樹さんを検索させて頂いているとき、貴方の文章を読ませて頂きました。
まずは、ありがとうございました。書かれたモノを名も知らぬ私に読めるようにしてくださってて、そして、その思慮深さの存在に感謝します。
月本さんの文章に動かされ、こうして勇気を持てて、書かせて頂いています。
橋田伸介さんの甥子さんである小川功太朗に世話になったものです。
彼らの死について、文字で表現するには難しい疑問を持っています。
周りに話すと、言ったとこで功太朗は帰ってこない、どっちにしてもアメリカが殺したんだ、と、おっしゃるとおりとしか言えない言葉が返ってきます。
私自身、その月本さんも言葉に出してあった類の妄想が憎しみになることを恐れ、功太朗の短期間で目的を達成した人生を誇りに思うよう、その妄想については、時間がたてば忘れるよう暗示をかけようとさえしていました。
しかしどうしても、何かくすぶり続けているモノが消えないのです。
メディアにおいて、誰がどうして彼らを殺したのか、という追求が全くないこと、彼の書いたモノが全て入っていたPCが見つからないこと、あの殺し方、等、その死が誰かにとって都合がよかったと、私にとっては明らかな犯罪に、怒りを感じる自分を押さえるべきか迷っているのです。
どなたか橋田さんや功太朗を仕事の上で直接知っている方とコンタクトが取れないかと思っていたところです。メディアでちらっと拝見させて頂いただけですが、宮島茂樹さんが「犯人に対して強い怒りを感じる」とおっしゃった時に、この方とコンタクトが取れたら、と思い、検索していたのです。
メディア嫌いが災い、非常識にモノを知りません(情報がこわかったのです)が、ここがそのところ、という感覚のようなものは同じだと思えるのです。
このターニングポイント、心して、目を背けず抜けたいと思っています。
私自身がここからそちらの側に転じるため、あえて情報を求める自分を引っ張り出してみました。
何かご存知のことを教えて下さい。
よろしくお願いいたします。
かしこ
坂本茜
*差出人アドレスは借り物です。恐れ入りますが、もしお返事頂けるようでしたら、上記のヤフーアドレスに願います。お手数かけます。
投稿: 坂本茜 | 2004年6月22日 (火) 14時56分