靖国神社参拝はまず国内問題
噂のとおり例大祭初日のタイミングでの靖国参拝が実現した。いつもいつも感じる違和感がまたまた襲う。首相の靖国問題は確かに国際問題としていろいろ言い立てられる。中国、韓国に言い分があるのはわかるし、彼らは彼らなりの対応をしかるべくするだろう。それは百数十年ほど前からのいろいろな経緯を考えればまあ当たり前だ。問題は日本の側で、まず彼らが態度を硬化するかどうかを云々するのはどう考えてもおかしい。これは日本の国内問題であって、そこをしっかりと探求追求対話してから、必要があったら他国からの批判に答える、その順番でないとどうにもならない。海外に何か言われたから自国の宗教問題や戦争被害者への追悼問題を考えるなんてのはおかしすぎる。合祀されている方々の問題にしても、当時日本人でいま外国人である方々の問題にしても、まずは今の日本の国内が何をどう考えているかがはっきりしっかりしないとどうにもならない。
ぼくは靖国神社という神社には、非常に違和感を覚える。田舎の八幡様の宮司をやっていた家に生まれて、ある程度神道というものにはじぶんなりのイメージを持ってきたし、靖国も子供のころから幾たびも参ってきた。しかし幾たびにこりゃあぼくの知っている神道の神社じゃないなあと思っていた。あそこに首相が参らなくてはならないのは何か違うと思う。先日伊勢神宮に行って来て改めてそう思った。神道は融通無碍というか、一種独特な宗教だからいろいろあっていいのだろうとは思うが、明治政府になってから作られた異様な新興宗教といっていい国家神道でしか、先の負け戦の犠牲者たちを祀れないとしたらそれはどうだろうと思う。それもこれもいろいろな局面で過ちを犯し惨めな負け戦となってしまったのが何よりも問題で、はめられたのが原因だろうがなんだろうが戦争突入と敗北を敵のせいにするというのも情けない話だ。鎮護国家も実現できなかったくせに居丈高に偉そうに神がどうのという靖国神社の態度は好きになれない。
もちろん、そうした仕組みも含めての負けだから、まるごと引き受けなくてはならないというのは認めるし、新しい安っぽい歴史であれ歴史は歴史だということもわかる。しかしそれにしたって、まずは日本の国内問題である。中国や韓国が何か言ったからどうのこうのという話しでは断じてない。というかそうした国内問題、明治維新以来の日本の歴史について徹底的に考え話し合いということをしてこなかったこと、朝鮮半島や中国、台湾との関係をなし崩しにし利権ばかりを追いかけ戦後史を闇の中で左右してきたことが何よりも問題なんだろうと思う。謝罪することよりも、先にやらなくてはいけないことがある。賠償やODAでは絶対に償えないことがある。
小泉内閣は総連への別件でのガサ入れでその方向性をはっきりと打ち出し、そして腰の引けた民間人を装っての靖国参拝でまた方向性を明らかに示した。先の選挙で選んだものとは何か、をタイゾー君なんかとは無関係にしっかりと考えなくてはならない、無粋でも何でも、今は真っ向から問題をしっかりと考える時期、そしてその方が人々も注目し話題を集める時期、なんだと思っている。
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