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2007年11月16日 (金)

Jスポーツで「フット」の生中継を見ながら

この瞬間になによりもオシム監督のことを思いながら仕事をしている人たちと同じ時間を共有しているということがなにがしか力になります。

改めていろいろなことを思っています。サッカーの取材を遅ればせながらはじめたのはオシム監督という人のことを知ったから。さっき、 そのきっかけになった編集者のTさんに電話をして、いろいろ話しました。 彼や木村さんのようにはオシムさんを個人的に取材はできなかったけれど、でもそういうことではなく、 オシムさんが考えていることやってきたことが私のこれまでやってきたことこれからやりたいことにいろいろな形で結びついていることを深く感じ続けています。

全てが繋がっている。オシム監督がやっていることがこの國とこの世界のこれからに繋がっていて、 自分がいまやっていることやっている気持ち意志などに、私なんかにもなにごとかができるんだできているんだという確信に、繋がってくる。 そのことの決定的な大切さ、が今後の私のテーマでもあり、それをベースにいろいろ考えていて、まあいろいろ書いていくことになります。

ああ、やっぱりそれにしても自分はオシム監督に甘えていたんだなと自戒しながら思い知ります。私の人生、 いつもそういうことになりますね。自分の悪い癖を何度目かにまた思い知る感じですよ。 世界と戦っているのはそれぞれ一人一人がそれぞれ一人一人の場所で、同じようにやっているのだ。別のトランザクションの中で、 別個に屹立している、それは辛いことだが引き受けなければならないし、引き受けてはじめて意味を持って輝く。

それができているのかどうか、を私はオシム監督のことを考え取材する中で常に意識していたはずだったのに、 倒れたという報を聞いてああやっぱり自分は甘えていたよこれまで、できてなかったよちっとも、と思ったりします。 一人で立って世界と向き合うこと。向き合うことが、そのまま世界を自分を変えていることなんだと自覚すること、 そしてそれをその確信を世界へ向けて伝えること。それが生きることなんだと改めて思い知り改めて覚悟します。

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